カテゴリ:郷土史( 3 )

東久留米駅開駅100周年

今日も朝から良く晴れ、気温も夏日を超えたようです(約7,700歩)。

少し脱線します。
私が現在住んでいる東久留米市の近代史関連の話題です。

大正4年(1915年)4月15日に武蔵野軽便鉄道(西武鉄道の前身)東久留米駅が開駅してから、今年は100周年になるとのことです。
これを記念して東久留米駅前商店会がチラシのような記念行事を展開(明日が最終日ですが・・・)しています。
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また、記念誌、東久留米駅開設と駅前商店街発展「100年物語」も発行されました。
この記念誌には、東久留米駅界隈の100年の変遷が詳しく記載されています。
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この記念誌の裏表紙の東久留米市の「市の鳥」オナガの写真に、当ブログの写真を使っていただきました。
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記念誌は既に完了した4月15日の記念式典で、先着700名贈呈分が用意されましたが、開始から30分足らずで無くなったとのことでした。
また、明5月9日(土)の記念イベントでも、300名の方に贈呈が予定されているようです

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by Musashinosampo | 2015-05-08 18:51 | 郷土史 | Trackback | Comments(0)

「北上夜曲」発祥の地、奥州市

本日2回目の更新です。

少し脱線します。

昭和36年に爆発的にヒットした「北上夜曲」(作詞:菊地規、作曲:安藤睦夫)の発祥の地は奥州市です。
今回の帰省時に発祥の地の歌(詩)碑の一つを訪ねて来ました。
場所は北上川に架かる「小谷木橋」の水沢区側の袂にあります。
作詞者の菊地氏がこの詩碑のある側の小谷木橋を渡って、出身校の「水沢農学校」(注)に通っていたそうですので、この地付近の北上川の風景が氏の詩想を呼び起こした、最有力地ではないかと思っています。
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この歌が全国区になる前の高校在学中に、この歌を聞いた記憶があります。
また、北上市にも歌碑がある様ですが、両氏とは無関係で単に「同名市」に因む観光用の歌碑の様です。
(注):水沢農学校は小谷木橋を通る道路の延長線上にありました。

何れも、PENTAX(300mm+K-5IIs)にて撮影

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by Musashinosampo | 2013-11-25 22:56 | 郷土史 | Trackback | Comments(0)

田圃アートと郷土史

今日は朝から雨のため散歩はお休みです。
少し脱線して、私が帰省中に撮った郷土の写真から紹介します。

奥州市の9月21日(見ごろを過ぎている)の田圃アートです。
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田植えした頃(6月)の状態
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上は、JA全農いわてのマスコットキャラクター「純鬼(じゅんき)くん」のイラストで、当地の銘柄米「ひとめぼれ」のコマーシャル。
下は、奥州市胆沢区の厳冬期恒例イベント「全日本農はだてのつどい」を表現しているのだそうです。
「農はだて」とは、
昔の農家の人達は、一年中休みなく働き、休みと言えば旧正月の十日間ぐらいのものでした。
この休みが終わり新年の農作業を始める日を「農はだて」と言うのだそうです。
この日、男達は朝早くからモドツと呼ぶ24本の縄を綯い、女達は小さなワラを束にして取り出し、稲ワラを苗に見立てて田植えをし、その上から豆ガラを敷いて豊作を願った。
そうした行事が終わると、皆で餅を食べて「農はだて」の行事は終わる。
昔ながらの風習が失われようとする時、農耕文化の再生と地域活性化を目指し、全国的な広がりをつくり出そうとするのが「全日本農はだてのつどい」で、冬期のイベントとして平成2年から始まったそうです。

一方、この田圃を見下ろす位置に下の写真のような「櫓」があります。
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この地「巣伏(すぶせ)」は郷土の英雄「阿弖流為(あてるい)」が紀古佐美の率いる圧倒的な大軍の朝廷軍と戦い、少数の軍勢で大勝利を収めた地でもあります。
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上の碑の写真からの抜き書き

「胆沢」は、「続日本紀」宝亀7(776)年「陸奥軍三千人を発し、胆沢の賊を討つ」と初めて登場する。その後、延暦21(802)年に胆沢城がつくられる平安時代初期にかけて古代東北史の歴史舞台となった。
この胆沢の歴史は、国家支配の拡大という歴史の中にのみ込まれてゆく蝦夷社会をうつし出す歴史でもあった。
宮城県栗原の蝦夷出身の郡司・伊冶公呰麻呂の乱(宝亀11年)で伊冶城と陸奥の国府多賀城が焼き落とされ、9年後の延暦8年、紀古佐美の率いる朝廷軍をアテルイ(阿弖流為)とモレ(母禮)が「日上の湊」に破る「巣伏の戦い」が起こっている。
そして、延暦13年と20年の二度にわたる坂上田村麻呂とアテルイの「胆沢の戦い」後、胆沢地方は古代国家の支配に組み込まれた。
この延暦21年、アテルイはじめ多くのエミシたちは、胆沢の肥沃な大地で平穏に暮らせることを願い坂上田村麻呂に降伏するが、アテルイとモレは、河内国椙山(大阪府枚方市)で処刑された。
胆沢の未来を願ったアテルイとモレ。彼ら「蝦夷の群像」を千年の歴史の中で見つめ続けてきた北上川とともに、彼らが願った胆沢の未来を、私たちは築いていかなければならない。

阿弖流為と母禮の活躍については、直木賞作家・高橋克彦が大作「火怨」(吉川英治文学賞受賞)で、「平穏な生活を守るための戦い」を感動的に書き上げています。

尚、坂上田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されています。
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by Musashinosampo | 2012-09-23 17:03 | 郷土史 | Trackback | Comments(0)